上総金田氏の歴史(歴代記)
 

   

 
 
第七章  上総金田氏の終焉 その3
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第一章 第二章 第三章 第四章 第八章

 
  第六章では上総金田氏と上総武田氏の関係について述べてきた。第七章では上総金田氏の終焉につながる出来事を扱う。
その出来事とは、古河公方足利高基の弟足利義明を擁した真里谷氏・里見氏が、古河公方足利高基に属する千葉氏・庁南武田氏と争い勝利し小弓公方足利義明の誕生となる出来事である。
小弓公方足利義明については兄である古河公方足利高基と不仲になり奥州を放浪していたというのが通説だったが今日では誤りと指摘され、古河公方家の内紛で父足利政氏が兄足利高基に敗れ武蔵国岩付城に移ってくるまで父を支え、その後真里谷信勝の誘いに応じて両総方面で新たに小弓公方として自立したと考えられる。
里見氏についても南総里見八犬伝などの影響で歴史的事実が歪められ伝わっている可能性が高く、里見氏に関する小説などを読んでも参考にはなりにくい。しかし上総金田氏終焉に里見氏が関与したことは千葉大系図などの内容から類推することができるので、里見氏を調べることでによって上総金田氏がどのように終焉を迎えたのかを解明したい。

 
金田常信(蕪木常信から改姓) 金田信定 金田宗信  ― 金田信吉   金田正信
       
   └  金田正興
                 (三河金田氏祖) 
 
 (6)年表から上総金田氏の終焉を検証

第六章で上総金田氏と庁南武田氏の関わりを詳しく述べた。そして第六章の最後の文として上総金田氏の終焉について下記のように記した。

庁南城が里見氏に攻め落とされ上総金田氏は終焉を迎えることになる。その後、庁南武田氏が小弓公方足利義明に帰属することになり千葉宗家と対立する立場に変わったことで、庁南武田氏につながる記述は千葉大系図からすべて削除されることになったと考えられる。

上総金田氏の終焉をよく知るために「上総武田氏系図」「里見系図」「喜連川判鑑」その他資料を調べることで当時の状況を正確に把握することに努めてきた。その結果、下記のような上総金田氏は終焉と照合する為の年表を作成することが必要と感じた。
 
長享2年(1488年)  里見義実没し、里見成義家督を継承する。
永正元年(1504年)  里見成義没し、里見義通家督を継承する。
永正3年(1506年)  古河公方足利政氏と子の高基と不和となる。永正11年高基が事実上政氏に勝利するまで争いは続く。
永正7年(1510年)   鶴岡八幡宮若宮別当空然(足利義明)宗斎と改名する。宗斎、武蔵国太田荘に挙兵。
宗斎、下野国小山城に移り還俗して足利義明と名乗る。その後父足利政氏の後継者を目指したと考えられる。
永正9年(1512年) 古河公方足利政氏、古河城を退去し下野国小山城に移る。足利高基、関宿城から古河城に入り古河公方を称す。足利義明小山領に入部し「南之上様」と尊称される。
永正11年(1514年)  足利政氏、佐竹義舜・岩城由隆等に命じて古河城の足利高基を攻める。
古河公方足利高基、宇都宮忠綱等に命じて政氏軍を迎撃させる。
永正13年(1516年)  足利政氏、上杉朝良の勧めにより下野国小山城より武蔵国岩付城に移る。足利義明も父政氏の後継者となる夢破れ岩付城に移ったと考えられる。
真里谷信勝がいつ頃から争ったのかは特定できないが、下総国小弓城主原友幸と争い千葉介勝胤は原友幸を支援した。
永正14年(1517年) 真里谷信勝、足利義明を両総方面の公方として奉じるために迎え入れた。安房の里見義通も真里谷陣営に加わった。古河公方足利高基・千葉介勝胤はこの状況を把握していなかったか、把握しても軽く考えていた。
里見義通率いる軍に真里谷軍も加わり庁南城を奇襲攻撃し落城させる。庁南武田氏が古河公方足利高基陣営から足利義明陣営になったことで、千葉介勝胤は上総国に対する備えが広範囲になり、小弓城を十分に支援することができなくなった。
真里谷軍に里見氏・庁南武田氏の軍が加わって小弓城を攻撃し優勢な戦いとなった。小弓城は落城し原友幸は下総国根木内城(原氏家臣高城胤広の居城)に撤退途中に原友幸・高城胤広は討死した。
「足利政氏、白田太郎に自身及び下総国高柳在住の子同義明への忠節を求む」と白田文書に残っていることから、足利政氏は足利義明陣営を支持していたと考えられる。
永正15年(1518年) 小弓城を修築した生実御所が完成し足利義明が移り小弓公方と称す。
 里見義通没し、里見義豊家督を継承する。
永正16年(1519年) 古河公方足利高基、小弓公方に属する真里谷氏の椎津城を攻撃する。
足利政氏岩付城から武蔵国久喜甘棠院に移る。
大永3年(1523年) 真里谷信勝没し真里谷信保家督を継承する。
大永4年(1524年) 北条氏綱、扇谷上杉家の上杉朝興を高輪原の戦いで破り江戸城を攻略。
大永5年(1525年) 上杉朝興は山内上杉家の上杉憲房や甲斐守護武田信虎と反北条の同盟を模索し反北条の包囲網液の形成を図る。。
大永6年(1526年) 里見実堯鎌倉を攻め、鶴岡八幡宮以下の諸堂社を焼く。北条氏綱これを撃退する。(鶴岡八幡宮の戦い)
享禄4年(1531年) 享禄2年より古河公方足利高基・晴氏父子の対立が続いたが、高基が隠居し晴氏が古河公方の地位を確立したとみられる。
享禄5年(1532年) 千葉勝胤没し千葉昌胤家督を継承する。(享禄5年は天文元年)
天文2年(1533年) 北条氏綱と通じた里見実堯・正木通綱を里見義豊が誅殺。
天文3年(1534年)  里見実堯の嫡子里見義堯が北条氏綱の援助を受けて、犬掛の戦いで里見義豊を打ち取り里見氏当主となる。
真里谷信保讒言により小弓公方足利義明の勘気をこうむり出家し如鑑と号す。しかし勘気は解けず真里谷如鑑は死にいたる。
無実だった真里谷如鑑の死は真里谷氏の分裂を招き真里谷信隆・信応兄弟の争いとなる。
小弓公方足利義明は敵対した真里谷信隆の椎津城に攻め込む。
天文6年(1537年) 里見義堯、北条氏綱と絶ち真里谷信応を授け、小弓公方足利義明を奉じ真里谷信隆を攻撃する。真里谷信隆降伏する。
扇谷上杉家の上杉朝興没し上杉朝定家督を継承する。北条氏綱、河越城を攻略。
天文7年(1538年) 10/2小弓公方足利義明・里見義堯下総国の国府台に進出する。古河公方足利晴氏の要請を受け北条氏綱父子小田原を出発する。
10/6北条氏綱江戸城を出陣。
10/7北条氏綱・氏康父子、国府台にて小弓公方足利義明・里見義堯と戦う。(第一次国府台合戦)
足利義明・義純父子と弟の基頼戦死。里見義堯安房に走る。義明の子国王丸(後の頼純)は安房の里見氏を頼る。
北条氏綱が保護していた真里谷信隆が上総国に戻り椎津城を居城とし、真里谷信応は里見氏を頼る。
天文10年(1541年) 北条氏綱没し、北条氏康家督を継承する。
天文12年(1543年) 天文12年から13年にかけて笹子城中尾城をめぐる争乱が起き、真里谷信隆が一族の内紛で弱体化すると里見義堯の上総国への進出が本格化する。
天文13年(1544年) 里見氏の武将正木氏が真里谷氏から大多喜城・勝浦城を奪う。
天文15年(1546年) 千葉昌胤没し千葉利胤家督を継承する。
河越夜戦で山内上杉家・扇谷上杉家・古河公方連合軍を北条氏康が破り、扇谷上杉家は滅亡。
天文16年(1547年) 千葉利胤没し千葉親胤家督を継承する。
天文19年(1550年) 将軍足利義輝の命で 関東に下向した彦部雅楽頭が北条氏・里見氏の仲介を取り成す。
天文21年(1552年) 真里谷信政の椎津城が里見義堯に攻められ落城。信政自害。かって争った兄信隆の子信政に味方した信応も自害。
弘治3年(1557年) 千葉親胤暗殺され千葉胤富が家督を継承する。
永禄4年(1561年)  小田原城の戦い(上杉謙信率いる10万が小田原城を包囲)その後鶴岡八幡宮にて上杉謙信関東管領に就任。
千葉大系図では千葉胤富が北条氏の援軍として小田原に出陣している間に里見義弘によって小弓城・臼井城が落城させられたが、千葉胤富が戻ってくると里見軍を打ち負かし両城を取り戻したと書かれている。但し里見系図には何も書かれていない。
永禄7年(1564年) 1月第二次国府台合戦で北条氏康が里見義弘を破る。それまで里見氏に属していた万喜城主土岐為頼が離反し、北条氏康に寝返る。
永禄9年(1566年) 3月原氏が守る臼井城の戦いで上杉謙信の軍が敗れる。千葉大系図では千葉胤富も出陣し戦ったと記されている。
永禄10年(1567年) 三船山合戦で里見義弘が北条氏政の軍を破る。里見氏は第二次国府台合戦で失った上総国の領地を回復。
天正元年(1573年) 北条氏が簗田氏が城主の関宿城を攻めた第三次関宿合戦に、佐倉城主千葉胤富と石浜城主千葉次郎(関八州古戦録では胤宗・千葉大系図では雅胤)が千葉衆として出陣。千葉次郎が討死。翌年5月佐竹・宇都宮の仲介で簗田氏は城を明け渡し第三次関宿合戦は終わる。石浜城主千葉次郎には子がなかったので北条氏繁三男の胤村が石浜城主となる。
天正7年(1579年) 千葉胤富没し千葉邦胤家督を継承する。

上総金田氏終焉を述べるのに100年に及ぶ上記年表が必要なのは奇異に感じるかもしれませんが、これから述べることでその理由は明白になります。
下記系図を上記年表と照合しながら寛政重修諸家譜に書かれてる金田常信内容に基づき分析します。
寛政重修諸家譜が作成された江戸時代では上総金田氏と庁南武田氏との関係にまで考えが及ばなかったので、信定を常定(宗房系金田家の系図では信定として残ってる)に変えるなど間違った認識が数ヶ所あります。第六章で上総金田氏と庁南武田氏の関係を十分に述べているので、信定・宗信については省略し上総金田氏にとって仇敵である里見氏との関係を中心に述べていきたい。

       
  金田刑部常信 上総国長柄郡岩井城に住し、千葉家の催促に応じ、房総の境にをいてしばしば里見・安西等と戦ひて功あり。  
   (千葉大系図)  文明年間(1469~1487)千葉介に応じて房総国境に出張、里見氏及び安西氏と戦い功を挙げる。是れ旧領に依り本氏(本来の姓である)金田に復すなり。  
  金田左衛門大夫信吉 上総国勝見の城に住し、同国万喜の城主土岐氏と里見家と合戦の時、千葉の族とおなじく鶴見時通※を援て しばしば里見と戦う。  
   (千葉大系図)  天文年中(1532~1554)上総万喜城主土岐某房州里見氏と争う。信吉万喜を救う。  
   
金田左衛門大夫正信
 
記述なし
 
  金田弥三郎正興  上総国勝見城に住し、大永年中本国を去て相模国愛甲郡金田鄕に住し、後三河国幡豆郡一色村に移りて(松平)信忠君(松平)清康君に仕えたてまつる。  
   (千葉大系図)  大永年中(1521~1527)参州に住む。  
※鶴見時通と書かれているが正木時通のことと思う。第二次国府台合戦で里見義弘が北条氏康に敗北すると、土岐為頼と正木時通は里見氏から北条氏に寝返った。土岐為頼はその後も北条氏に属したが、正木時通は千葉胤富から領地を奪うなどして孤立したので天正年間に里見氏に帰参した。評判の悪い正木時通をそのまま書けないので土岐氏の家臣鶴見氏の名を借用したと考えられる。

寛政重修諸家譜に書かれてる内容は千葉大系図による影響を否定できない。
千葉大系図では庁南武田氏につながる記述は削除され意図的に里見氏との対立関係が強調された為、それを参考にした寛政重修諸家譜も大変歪んだ内容になってしまった。結論を述べれば「永正14年に里見義通率いる軍による奇襲攻撃で庁南城が落城し、金田正信は自害し金田正興は三河国に追放された。しかし、それ以前には里見氏による上総国進出はなく常信・信吉が里見氏と戦ってはいない。」ということになる。
  • 里見義堯が真里谷氏の内紛に乗じて上総国の支配権を拡大したのは天文12年から13年以降であり、その後永禄2年以降上杉謙信と連携する里見義弘が北条氏康に属する千葉胤富との対立関係が続くことになった。
  • 戦国大名として下総国・上総国・安房国に支配地域を拡大した里見義弘は、自分らに都合の悪いことを封印するため里見系図を書き換えた。
  • 里見氏が上総国に進出した天文12年・13年より50年も前の里見成義の代から上総国に進出してるように里見系図に記した。庁南城落城を明応7年(1498年)や小弓城落城を文亀3年(1503年)のこととしたのであった。しかも、ご丁寧に庁南城落城を明応7年8月25日と里見系図に記してあるが、この日は東海道沖を震源とするM8クラスの巨大地震である明応の大地震が発生し各地を津波が襲い甚大な被害を及ぼした日なのである。庁南城落城と小弓城落城は連携した出来事なのでともに永正14年(1517年)で時間的にも間隔は短いはずだが、それを意図的に時間を空けようとしたら大地震のあった日を思いついたようなのだ。
  • 「天文3年(1534年)真里谷信保が讒言により出家に追い込まれ如鑑と号したが、小弓公方足利義明の勘気は解けず死に至った。」と上記年表に書いたが、里見系図では文亀3年(1503年)の出来事とし、里見成義が討ち取ったと書かれている。
  • 真里谷如鑑の死後、真里谷氏は信隆・信応兄弟の争いになり天文3年以降衰退に向かうのだが、里見系図では里見成義が上総国に実際より40年前に支配地域を拡げてるように記されている。
  • 永正元年(1504年)里見成義が没し義通が家督を継承すると、大多喜城・勝浦城などの40年以上経って里見氏の支配下となる城を義通の代の事として里見系図に記された。これは系図を見た人に「里見義道の代には上総の国の大半は里見氏の支配下になった」という印象を与えることを目的にしたものである。里見義通が上総国窪田城(袖ケ浦市久保田)に移り、弟の里見実堯を真里谷城に置き 小弓公方足利義明を支えたと里見系図に記したのも同様である。
既に述べたが里見義弘の代になり安房国・上総国・下総国に支配地域を有する戦国大名となったが、それは正統な里見氏当主である義豊を誅殺して家督を奪い、更に小田原北条氏を利用し小弓公方足利義明を自滅させ、真里谷氏の内紛につけ込むなどあらゆる謀略をめぐらしたことによるものであった。
里見義堯・里見義弘が正当性な支配者であることを主張するために里見系図で里見成義の代までの出来事を書き換えたものである。
しかし、里見系図に書かれている事柄は里見成義の代でなくとも里見義堯の代に起きたことであり、里見系図を検証することにより真実を知ることが出来る貴重な歴史的資料であることには間違いない。
更に里見義弘が都合の悪いことを封印した結果、江戸時代に曲亭馬琴が「南総里見八犬伝」が著わした結果、里見氏に良い印象を持つ人が今日で多いと思われる。
上総金田氏の研究においても寛政重修諸家譜や千葉大系図に里見氏と戦ったことは書かれても、何故金田正信が歴史上抹殺され、弟の金田正興が三河国に行くことになったのか原因が不明だった。しかし、里見系図に庁南城落城が記されていたことで研究を進めることが出来た。

 (7)庁南城落城を検証

ここでは上総金田氏終焉の原因となった永正14年(1517年)に起きた庁南城落城について検証したい。
里見系図に書かれていることが唯一の資料だが、明応7年8月25日の出来事と記されているが明応の大地震が発生し房総半島の沿岸を津波が襲った日であることから、その日でないことは明白である。
小弓城主原友幸と争っていた真里谷氏が古河公方足利高基の弟足利義明を房総地域の権威となるように迎え入れ、里見氏も加わったことの次に里見系図に記されていることからも、小弓城が落城した永正14年と同じ年に起きたことと考えるのが必然である。

当時上総国は武田信長を祖とする上総武田氏が支配権を確立していたが、庁南城主である庁南武田氏と真里谷城主真里谷武田氏に分かれて統治していた。両家とも古河公方に属していたが佐倉城主である千葉介と並ぶ上総介としての権威を持つ庁南武田氏の方が本家的立場であった。
庁南武田氏が上総介としての権威を持つ為に千葉氏から金田常信が庁南武田氏に迎えられた。上総介広常の弟である金田頼次の子孫で血脈と伝統を受け継いできた常信であったが、当時蕪木姓だったのを金田姓に戻した。千葉大系図では文明年間としているが実際はもう少し前だったかもしれない。
金田信吉について千葉大系図では天文年中と書かれているが、万喜城主土岐為頼が里見氏に離反したのは永禄7年以降のことになる。更に正信・正興の父であることを考えれば、天文年中の頃には亡くなっていたと考えるのが妥当である。
古河公方家では小弓公方足利義明を自立した公方とは認めず、「足利義明が古河公方足利晴氏に対して謀反を起こしたので北条氏に命じて成敗した」という立場なので、小弓公方として自立する要因である小弓城落城を大永5年とした。実際より遅くする必要性があったのだろうが、古河公方に属している千葉氏は古河公方に配慮して小弓城落城を大永年中と記した。そして三河金田氏の祖となる金田正興が三河国に移ったのも大永年中と千葉大系図では記されている。
小弓城落城は永正14年の出来事であり、金田正興が三河国に移ったのも同年もしくは翌年の出来事であろう。

下記系図に書かれている信定については真里谷城主武田信定、宗信については庁南城主武田宗信と記したが、更に真里谷城主武田信定については付け加えなければならない。真里谷城主武田信定とは武田信長より家督を継承した庁南城主武田信高のことなのである。千葉大系図では一般に武田信高と呼ばれる人物を、真里谷氏が真里谷城主武田信定と意図的に真里谷氏の系図に書いたのをわざわざ金田氏の系図に採用したのである。
武田信高・武田宗信は金田氏の当主を兼ねることで上総氏の血脈を継承し上総国を支配する正当性を誇示したのであった。金田姓を名乗ることはなく、上総介信高・上総介宗信と称したのであった。
庁南武田氏の権威が定着すると金田氏の当主を兼ねる必要性はなくなり、金田常信の直系である金田信吉に金田氏当主は返された。金田信吉は勝見城主として庁南武田氏では重要な立場となり、このような経緯から上総国勝見城主金田左衛門大夫信吉を祖として家史を作成した金田諸家も存在した。
信吉という名は上総介宗信から与えられた名で、嫡子吉信の名を逆にすると信吉となることを意識した命名である。
金田信吉の嫡子正信は娘が佐倉城主千葉介昌胤に嫁ぎ利胤・胤富の母になっていることから、庁南城主上総介宗信の娘婿だったと考えられる。
上総介宗信が家督を嫡子吉信に譲っても、上総介吉信の義理の弟である勝見城主金田左衛門大夫正信は千葉介・上総介連携の重要な役割を果たしていたのであった。

千葉介・上総介の結びつきに金田正信が重要な役割を果たしている頃、それを憎々しく思っている人物がいた。真里谷城主真里谷信勝である。
千葉介が支援する小弓城主原友幸と対立してきた真里谷信勝は、永正14年足利義明を迎え安房国の里見氏も味方としたであった。
里見義通率いる軍に真里谷軍が加わり庁南城に奇襲攻撃をかけてきたであった。同じ上総武田氏の真里谷氏から攻撃されるとは考えていなかった庁南武田氏は戦いの準備ができてなく内応者もいたはずですぐ落城してしまった。庁南城が落城したことで勝見城にて城主金田正信の留守を守っていた金田正興たちは城を明け渡し降服するしかなかった。
千葉介・上総介の連携を重視してきた武田宗信は城から追放され謹慎となり、金田正信など千葉氏との繋がりのある人たちは粛正された。
この時に金田左衛門大夫正信は自害させられことが濃厚なのだが、その事実は歴史上抹殺されてしまった。千葉介昌胤の義父で利胤・胤富の祖父に当たる人物が、千葉大系図に直接何も書かれいない理由は千葉大系図で庁南武田氏との関係する記述は封印されたことによる。
 

 
 
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